水墨画の筆墨を再び考える     王俊宇瀟

 水墨画の要とも云える筆墨に関して、すでにいろいろと自分なりに記述して来た、例えば墨色(墨)に対する感受性が普遍的に見られる一方、線(筆)に対する理解は漢字文化の象徴である「書」の経験も求められ(*1)、文人社会の歴史や影響から考えると、「墨」よりも「筆」の方は文化的な特徴や意味合いが大きいと思われる。その延長線で見ると、中国の水墨画は「線」をより強調するのに対する日本の水墨画は「墨色」を重んじる事も理解できる,つまり、科挙制度を土台とする文人と文人社会が長らく中国の歴史の中で存続して来たのに対して、日本は僧侶や茶人武士といった特殊な階級の方々に好まれた水墨画を理解と支持する広い文人階級や文人社会が築かなかった事は大きな理由であろう。

 ところで、実際に水墨画を制作する人間の立場で考える「筆と墨」は、現実問題として作品や作風を左右するほど極めて重要な課題だと言えよう。
 
 「墨」をつけた「筆」が白紙に描き、出来た筆跡を観ると、その軌跡の抑揚やリズムは「線」(筆)の範疇と見える一方、その線の濃淡変化や滲み掠れといった色合いの味は「墨」の範疇になる、要するに一筆で出来た墨跡は「筆」であると同時に「墨」でもある、「墨」と「筆」はお互いに依存し乍ら表裏一体の関係になると言える。或は、「筆」と「墨」は一つの墨跡を支える両側面であり、そのいずれかも無くてはならない存在である。ただ、両側面と言っても、同量同等とは限らない、例えば、墨色の変化を余り気にせず線の強弱に専念する表現もあれば、線の抑揚を気にせず墨色の味わいを主とする表現もある、或は筆と墨の両方を同時に面白く見せる。無論、両方巧く表現することは理想であるが、それでもより「筆」の表現に傾れる場合と、より「墨」の主張が強い場合がある、つまり「筆」「墨」両者の割合は表現者の技の見せところであり、作品の個性にも繋がる。このへんは、「筆」と「墨」の優先順位や割合に気を配り、意図的に表現する作品もあれば、余り意識せず気の向くまま自由に描く作品もある、この違いは作風の違いに直結すると同時に、水墨画の表現手法を最大限に作品に取り入れるかどうかの作者の姿勢と意思に決定される。
 
 「筆墨」は作者にとって水墨画表現の基本元素であると同時に、鑑賞者から観れば作品を楽しむ重大な要素でもある。一つの筆跡を「筆」と「墨」それぞれの側面を観察する場合、「筆」は「形」であり「墨」は「色」である。別の言い方をすれば、「筆」は「線」であり、「墨」は「面」と言える。

 上述のように、一つの筆跡の中で「筆」と「墨」を巧に表現する作品もあれば、一つの画面の中に敢えて別々の筆跡或は墨跡で表現する作品もある。張大千先生が近代に甦らせた溌墨の技法はその典型と言える。広く暈した「面」が「墨」の表現に専念し、岩や樹木花草が「筆」を見せる主な舞台になる。とはいっても、溌墨の「面」も形が有り、その形は露骨な筆跡を避け乍らも動感と潜まれている「筆」が必要とする。墨色の面白い「面」は均一のペンキ塗りと異なり、必ずや「筆」の動きが存在するはずと思う,運筆が隠れてはっきり見えなくてもその動きを感じる事が出来る。又溌墨の線も当然乍ら一般水墨画同様「筆」と同時に「墨」の表現も兼ねていることは言うまでもない。


 この様に、筆墨と紙それぞれの特徴や相性を理解し、そして表現手法として個性的な「筆」「墨」を作品に取り入れる事は水墨画そのものに対する理解を深めると同時に、画家としての作風を確立する上でも大変重要な事だと考える。
 
 
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