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zoom RSS 古代蓮に感じる侘び寂び、水墨画の心眼                    王俊宇瀟

<<   作成日時 : 2014/06/30 13:09   >>

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 千葉公園の古代蓮が、他の蓮よりいち早くその咲き姿を披露してくれた。先週、二年ぶりに蓮達に訪ねた。

 蓮は沢山の品種が有るようだが、私の知る限り、千葉の古代蓮(大賀ハス)が関東周辺では一番早く咲き誇る。この蓮は2000年ほど前と推測された種から目覚めたモノで、もしかして、昔の人間が早起き早寝同様に、華も古代と現代の生物的リズムや周期が異なるかもしれない、ならば、王羲之や黄山谷など現代に生き返らせたらきっと今の生き方や芸術に驚くだろうと妄想してしまう。

 さて、蓮は水墨の題材として良く登場する、昔から好まれるテーマである、近代の大家を例に挙げると、私の師匠の師匠、張大千先生は『張ハス』と云われているそうだ。

 蓮が水墨画画家に好まれる理由として、形と意味合いの両面が考えられる。
 先ず形は、絵画としての点線面が揃っていて、画面構成に好都合と言える。蓮の葉は面になり、複数の葉は様々な形状と濃淡変化を画面にもたらし、迫力ある、そして大らかな作品創りにもってこい好材料である。葉で構成した大らかな画面に線としての茎を縦横自在な直線或は曲線を加え、建築の柱と梁のように画面を支え、そして比率とバランスよく画面を分割し、作品にリズムや躍動感、或は安定感や均衡性を与える。最後の極めつけは点としての華を添え、目線を引くポイントとして強調する。又、花の形や向きによって、更に画面に表情や色気を表現出来る。この様に、画面構成として必要な点線面が自然と都合良く揃えるハスが長らく水墨画家に好まれる大きな理由だと考えられる。
 そして、忘れては行けないのは、水墨画の特徴として、描かれる対象物の外見的な要素以外に精神的な要素も求められる。水墨画(中国絵画や日本絵画全般を含む)の歴史に文人達の姿が終始隠見するように、絵画的な要素以外に、文化的な意味合いもかなり強く含まれている。モノの形以上にモノの意味を重んじると言っても過言ではない。例えば竹を描くには、冬でも青々しくいる姿が寒さに負けず力強い生命力を謳歌すると同時に、竹の幹は中が空洞の為、包容力が有る謙虚な心構えを賛美する一面もある。同じく松や鶴など、長寿のシンボルとして認知されているし、山水画の山々に至っては、自然への崇拝や憧憬或は自然回帰の思想を表す他、現実社会への反省と逃避の心情も現れている。多くの画家に好まれるハスは、汚れた泥水から清らかな花を美しく咲き誇るため、高潔の象徴として親しまれる。事に仏教の象徴として広く認知されている花でもある為、その宗教的文化的な意味合いが無視出来ないモノと考えても不思議ではない。


 ところで、千葉の古代蓮に話しを戻る。
 今まで見た蓮の中で、個人的には自分の画風に合う品種として特に好み、花弁の形と質感,或は全体的美妙な表情などに引かれ、この時期になると、度々千葉に出向いては蓮に会い、カメラにその姿を納める。
 実は花の撮影をしていると、面白い事に、自分が大勢の撮影者の中でかなり異質者である事に気づく。大概の人は綺麗な花を撮る、ここで綺麗な花というのは、可憐なピンクをしている咲き始め一日目か二日目の端正な花を指す。一方、私が画の素材として美妙な姿を探し求める。私が美妙と思う花の姿は、大概咲き始めて三日目四日目、時には散る寸前ごろの、その姿が、咲き始める頃清楚端麗なモノよりも、躍動感や色気を感じ取れる、そして地球の重力に順応しながらも懸命にバランスよく美しい姿を保とうとしる努力に感動される。
 この花の見方も、よく考えてみると、前述のように、やはり外見的な要因と内在的な要素が混在しているのではないかと気がする。
 まず、撮影したモノがそのまま作品となる(暗室やデジタルの加工を施す事もあろうが)寫真芸術(一次創作)と違って、水墨画の題材としての花選び(スケッチや素材収集の寫真)は、あくまで絵画創作の準備として行われ、収集した素材が画家の意図により整理編集され新たに画面に配置される。つまり花からスケッチ(或は素材寫真)へ、そしてスケッチから絵画作品へと二次創作活動を経てやっと完成される。この場合、あくまでも二次創作の絵画画面に適合するかを判断する必要が有り、そして多くの場面では、あまり行儀よく端正な姿は、画面に躍動感やリズム、或は表情を与えるのは向いてないと思われる、一方、形が多少崩れていっても、花弁が多方向に曲がったり交差したりして二日目以降の花の豊かな姿は、絵画の素材としては実に好都合で最も適合すると常々思う。
 その上、二日目以降の花の、懸命に美しさ保ちながら生きようとする強い意志と、強い意志にも関わらずやはり花弁の支えが弱くなってしまうむなしさに一抹の哀愁さえ覚える、その両方が交わる複雑な内的精神世界を感じて止まない。
 蓮のその内的な情緒に何処かで自然体としての生命に対する侘び寂びの精神世界を感じ得るのは、知命を迎えた私だけだろうか?それとも、中国古典文学を専攻すした私の、心の奥底に自然を過敏に感受する文人の繊弱な悪癖に影響されただろうか?或は、私の、水墨画家としての、独特な心眼によるモノだろうか?

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